無用の用

ここ数か月、首から背中にかけてのある一部分がず~っと凝っていて痛かったんです。

元々首の状態が良くなかったし、もうずっと首と肩は凝り固まっていたからそのせいかな?と思ったものの、寝違えたとか、ぶつけたとか、捻ったとかそういう事があったわけではないのに、いつの間にか部分的に特別痛い状態が続いていたので不思議に思っていました。

ストレッチしたり、整体に行ってみたり等しても一向に良くなりませんでした。

ところが、最近ふと気付いたらいつの間にかその部分の痛みがかなり軽減されているんです。やはり特になにもしていないのにです。あまりにも不思議です。

それであれこれ原因を考えてみたのですが…もしかして。。歯かも。。。と思いました。

数か月前、歯の治療のために歯を抜き、ここ最近、抜いた箇所に仮歯を入れたばかりです。

なんとなく、痛みが発生し始めた時期と歯を抜いた時期が重なりますし、痛みが消え始めた時期も歯を入れた時と重なります。しかも、痛かった場所は身体の左側だったのですが、抜いた歯も左側でした。

私は医者じゃないので正確な事は分かりませんが、今のところ考えられる原因は歯しかありません。

まさか歯のせいで首から背中が痛かったなんて思ってもみませんでした。

もしかしたら、歯が一本ないせいで身体全体のバランスが崩れていたのかもしれません。歯なんて大きさは小指の先ぐらいしかないのに、それがあるかないかで身体全体に影響を及ぼしてしまうなんて本当に人の身体って繊細にできているんだなと思いました。

「食べる」という事だけを考えたら、一本歯がなくても特に困るという事はありませんでした。多少食べにくい、という事はあったにしろ、食べられないという事はなかったです。だから、治療するとお金もかかるし、いっそのことこのままなくても良いかな?なんて思ったほどです。

でも、食べるという直接的な役割以外にも歯の役割があったということですね。思わぬところに影響を及ぼしていました。

人間もこれと同じだな~と思いました。

神様は比喩で一人一人はキリストの肢体だとおっしゃいました。身体の肢体のどの部分も必要なように、一人一人が必要であり、いなくてよい人はいない、ということです。

自分にはできることがない、役に立たない、と思ったとしても、神様の世界全体で見たら自分が存在してこそうまくいくという事です。本当に一人一人が貴重な存在だという事を忘れてはいけませんね。

【参考】(コリント人への第一の手紙12章14~27節)
実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。 もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。 そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。 もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。 ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。 

自分の都合だけで恩恵は受けられない

前回のユリの話題の続編です。

その後ユリがどうなったかというと。。。実はそんなに変化していないんです。

先週は毎日ユリの姿形が違っているほど勢いよくつぼみから開花に向かっていたのですが、ここにきて急にスピードダウンしてしまいました。

ユリの花四つのうち二つは開花していて二つはつぼみでしたが、開花した二つの花はずっと花が開いたまま持っているんです。それはいいとして、残りのつぼみの一つは少~しだけ開きかけていて、もう一つは全然開く気配もありません。

そこで昨日花瓶の水を替えて見たりしたのですがあまり効果がありませんでした。

どうしてだろう??と考えていたら、何となく寒さのせいではないか?という霊感が来たのでいろいろ調べてみたら、通常のユリの開花時期というのは5~7月だという事が分かりました。

今は11月下旬。家の中なので、外の気温よりは高く保たれていますが、このところ寒かった上に、この三日間ほぼ一日中外出して留守にしていたため、部屋の気温が一段と低くなってしまっていたようです。

そこでふと、以前カメを飼っている知人が真夏に「カメが死なないように外出中もずっと部屋のエアコンを付けっ放しにしている」と言っていたことを思い出しました。

それを聞いた時は「動物を飼うのも大変だな、私は電気代節約したいから無理だな。」くらいにしか思わなかったのですが、今回、植物を育てることも、生け花も同じことが言えるのかな、と思いました。

動物も植物も生きています。生きているものが存在している以上、存在できる状況を整えないといけないということです。

電気代を節約したいから多少寒くても着るもので調節、というのはあくまでも私の都合であって、ユリには酷なわけですよね。ユリのためには少し部屋の温度を上げないといけません。

つまり、命あるものと共にするなら自分の都合だけでは生きられないんだな、と思ったんです。

でも、その為に生きる時、自分も受ける恩恵があります。ありきたりの言葉ですが「give & take」です!

先週は毎日ユリから恵みを受けていましたが、続けて恵みを受けたければ今度は私がユリが生きれるようにしてあげないといけませんね。