「伝道の才能」はある?

ちょっと問題発言になるかもですが。。。

表題の通り、伝道に才能は必要かどうかについて今の私の考えをお伝えしようと思います。

ただし、ここでいう伝道は、伝統的な方法の伝道。声をかけて連れてくる直接的な伝道のことを指します。

結論から言うと、私個人の意見としては伝道の才能というのは「ある」と思います。

誰でもがんばればできるとか、そういうきれいごとは言いません。(苦笑)これは、長年の牧会生活でいろんな人を見てきた私の個人的見解です。

じゃぁ、どうすればいいの?と思いますよね?

先にお伝えした通り、ここで言う伝道は声をかけて連れてくることを指しています。正直、このやり方は社交的な人が圧倒的に有利です。

確かに声をかける事自体は勇気を出せばだれでもできるだろうし、回数を重ねれば慣れも出てきます。だから全くやっても無駄という事ではありません。

ただ、これがすごく得意な人が存在するのは確かです。

勉強でも、得意科目と不得意科目がありますよね?不得意な科目も努力すればある程度できるようになりますが、好きで得意な人にはかないません。それと同じような感じです。

主の心情を悟るためには路傍伝道はやってみる価値があると思います。やってみたら才能が開花する人もいますからね。何事もやってみないと分かりません。

ただ、それにこだわりすぎて、うまくいかない経験ばかり重ねて「私はできない」と言って落ち込むのも良くないのかな?と思ってます。

「伝道」という言葉を考えてみてください。「道を伝える」と書きますよね?だから、本来の意味としては、連絡先を交換したり、人を教会のイベントに連れてくるだけでは伝道とは言わないんです。道を伝えて初めて伝道なわけです。

では、道って何でしょう?

『私は道であり、真理であり、命である。・・・』(ヨハネ14:6)

つまり、主が道です。本来は主を伝えなくては伝道ではないという事です。

ただ、教会のイベントに来たことがきっかけで聖書を学び始め、主を知るに至ることがあるので、イベントに連れてくることも大きな意味では伝道です。

何が言いたいのかと言いますと、声をかけることだけが伝道ではない、という事です。主を伝える方法は様々あります。

個性がそれぞれ違うから、自分の個性を使って主を伝えるべきだと思うのです。最初から拒否するのはかえって自分の幅を狭くすることですから、トライすることは必要ですが、一つに固執して落ち込む必要もない、という事です。

正直、一昔前と今とで同じやり方をしていたら時代遅れになりますよね?もっと新しい方法を開発しても良いと思います。

ただ、それは誰かが開発してくれるものではなく、自分がどうやったら主を伝えられるのか、どういう証の仕方が自分は得意なのかそれぞれが考えてみるべきです。そしてトライすることです。

最初に、伝道の才能は『ある』と言いましたが、路傍伝道に才能がなくても他の方法なら才能が「ある」と思いますよ。

神様が一人一人に個性を与えて下さっていますから、自分の個性がどこにあるのか見つける努力はしないといけません。見つけるにはただじ~っと座って祈ればいいのではなく、やってみないとわかりません。

どうやって主を伝えればいいのか、祈り、積極的に努力する人には神様がふさわしい霊感を与えて下さると思いますよ。

投稿者:

クララ

キリスト教福音宣教会牧師 ・東京都在住 ・O型 ・おうし座 ・趣味:ピアノ

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