身近にある「死に至る病」

皆さんは、人とわいわい過ごすのが好きですか?それとも一人でいる方が好きですか?

どちらが好きかどうかは好みの問題なので善悪の基準ではないですが、なんと『孤独』は喫煙や肥満に匹敵する健康被害があるのだそうです。

ただ単に一人でいることと、『孤独』というのはちょっと意味合いが違うような気がしたので、念のため、『孤独』の意味を調べてみました。

<孤独>
頼りになる人や心の通じ合う人がなく、一人ぼっちで寂しいこと。
(大辞林第三版より)

他に、2,3種類の辞書を見てみましたが、同じような感じでした。つまり、孤独とはただ一人でいるだけ、というより、通じ合う人がいないくて「寂しい」という感情が入りこむ状態のようです。

ちなみに、孤独度が高い人のアルツハイマーに罹るリスクは、孤独度が低い人の2.1倍なんだそうです。

海外ではこの『孤独』が死に至る病として認識され、すでにその対策が始まっており、イギリスでは、今年1月に『孤独担当相』が設置されたそうです。

そしてショックなことに、OECD(経済協力開発機構)21か国のうち、日本の男性が「もっとも孤独」だったのだそうです!

日本は世界一の孤独大国らしいです。なのに何の対策も成されてません。。

こういう状況を考えると、教会の在り方、というのを考えた方が良いな、と思いました。

なんとなく・・・教会ではどうしても正式な「信仰者」だけを養成しようとしてしまいます。実際私も牧会していた時はそうでした。

でも、もっと「救い」を幅広く考えないと、本当の意味の救いも成せないんじゃないかな、と思ったんです。

例えば、日本人は神社はみんな気軽に行きますよね。正式なそこの神社の信者です、というわけじゃなくても。中には、お参りに行かなくても気分転換に神社に立ち寄る人もいます。立ち寄るのに恐怖心や不安感はないと思うんですね。

なんとなく、教会もそういう存在にならないといけないんじゃないかな~と思ったんです。

みんなが気軽に立ち寄れる場所、行けば孤独から解放される場所、話ができる場所、として教会が存在するなら、逆にもっと日本人の救いが進むんじゃないのかな~と。そういう自然な雰囲気の中で神様を感じるようになっていくこともあるんじゃないかなと。社会貢献もできるし。

私たちはついつい、救いに直結しない時間は「無駄な時間」と認識してしまいがちです。つまり、証する事、御言葉を伝える事、伝道すること、使命を果たす事などが正しい時間の使い方だ、と。

だからみんな「正式」に過ごすために忙しくて余裕がなくて気軽におしゃべりする時間もない、というのが現状じゃないでしょうか?

勿論、正式に過ごすことは正しいし、それに専念する人もいないといけないですが、同時に、もっと広範囲に考えて活動することも必要な気がします。

以前先生が、『みんな真理を多用に使わないといけない』とおっしゃっていたことがあります。

私たちがもっと頭を柔軟にして、いろいろと認識感を変えていかないといけない時が来ているのかもしれませんね。

情報源☞ 日本のオジサンが危ない!