願い求めたものをちゃんと受け取るには??

自分が祈っていたことや願い求めていたことを神様からちゃんと受け取るという事はとても難しいことです。

なぜなら、自分のタイミングではなく、神様が自分にふさわしい時を見て与えて下さるからです。しかも、その『時』というのは、事前に予告されるわけでもなく、いつの間にか来るのです。

逆に、その『時』をうまくつかんで願い求めていたことを受け取った人を「運がいい」とか、「チャンスをものにした」とか言うのかな?と思います。

では、その『時』をうまくつかむにはどうすればいいのでしょうか?

これについて考えていたところ、創世記に出てくるロトの話が思い浮かびました。

ロトは堕落の街ソドムに住んでいました。ソドムの街は堕落のせいで滅亡する運命にありましたが、ロトがその難を逃れることができたのは、天使を迎え入れ、ソドム滅亡の知らせを聞き、逃げることができたからです。

しかし、ロトの娘婿たちは知らせを受けたけれど悪い冗談だと思って逃げることをせず、街と共に滅亡してしまいました。

ロトは天使を迎え入れた時、その人々が天使だとは知りませんでした。平素から旅人を迎え、厚くもてなす習慣があったので、その平素の行い通りに来た人を迎えたところ、実は天使だったというのです。

平素の行いが本番を左右したわけですね。

さらに、普段から神様を信じていたので、天使の話を受け入れ、逃げることができたわけです。逆に、信仰のない娘婿たちは天使の話を冗談だと思ってしまい、せっかく教えてもらったのにそれが生かされませんでした。

やはり、チャンスというのは普段から熱心にしている中で来るし、良くわかるからこそそれがチャンスだと見分けられるのだと思います。

例えば、サッカー選手は試合中、チャンスが来ればそれがチャンスだと分かってパスするなり、ゴールするなりするでしょう。ところが、私のように何も知らない人がチャンスボールを渡されても、それがチャンスなのか何なのかも分からず、基本的にどこへパスして良いかもわからず、まごまごして終わるわけです。

主婦は毎日買い物をするでしょう?毎日買い物するからこそ食糧や日用品の相場が分かり、安ければ安いと分かってここぞとばかりに買うわけです。ところが旦那はよくわからないから高いのに平気で買ってきたりします。

このように、その分野で普段から熱心に活動していてよく知っている人が時をつかみ、チャンスをつかめると思うのです。

ですから、自分が願い求めたものがあるならば、そこへ向かって努力をするべきだということです。そうする中で見分ける目を養うことができるからです。また、常にそこに意識があれば自分が願い求めたことも忘れません。(人は祈っておいて忘れてしまうことが多いです。)

結局は神様が与えて下さったものを受け取るのに、魔法のような方法はないという事ですね。

平素信仰がすべてを左右します。せっかく神様が与えて下さったのに分からなくて逃してしまうという残念なことにならないように日々熱心に行いたいものですね。

「伝道の才能」はある?

ちょっと問題発言になるかもですが。。。

表題の通り、伝道に才能は必要かどうかについて今の私の考えをお伝えしようと思います。

ただし、ここでいう伝道は、伝統的な方法の伝道。声をかけて連れてくる直接的な伝道のことを指します。

結論から言うと、私個人の意見としては伝道の才能というのは「ある」と思います。

誰でもがんばればできるとか、そういうきれいごとは言いません。(苦笑)これは、長年の牧会生活でいろんな人を見てきた私の個人的見解です。

じゃぁ、どうすればいいの?と思いますよね?

先にお伝えした通り、ここで言う伝道は声をかけて連れてくることを指しています。正直、このやり方は社交的な人が圧倒的に有利です。

確かに声をかける事自体は勇気を出せばだれでもできるだろうし、回数を重ねれば慣れも出てきます。だから全くやっても無駄という事ではありません。

ただ、これがすごく得意な人が存在するのは確かです。

勉強でも、得意科目と不得意科目がありますよね?不得意な科目も努力すればある程度できるようになりますが、好きで得意な人にはかないません。それと同じような感じです。

主の心情を悟るためには路傍伝道はやってみる価値があると思います。やってみたら才能が開花する人もいますからね。何事もやってみないと分かりません。

ただ、それにこだわりすぎて、うまくいかない経験ばかり重ねて「私はできない」と言って落ち込むのも良くないのかな?と思ってます。

「伝道」という言葉を考えてみてください。「道を伝える」と書きますよね?だから、本来の意味としては、連絡先を交換したり、人を教会のイベントに連れてくるだけでは伝道とは言わないんです。道を伝えて初めて伝道なわけです。

では、道って何でしょう?

『私は道であり、真理であり、命である。・・・』(ヨハネ14:6)

つまり、主が道です。本来は主を伝えなくては伝道ではないという事です。

ただ、教会のイベントに来たことがきっかけで聖書を学び始め、主を知るに至ることがあるので、イベントに連れてくることも大きな意味では伝道です。

何が言いたいのかと言いますと、声をかけることだけが伝道ではない、という事です。主を伝える方法は様々あります。

個性がそれぞれ違うから、自分の個性を使って主を伝えるべきだと思うのです。最初から拒否するのはかえって自分の幅を狭くすることですから、トライすることは必要ですが、一つに固執して落ち込む必要もない、という事です。

正直、一昔前と今とで同じやり方をしていたら時代遅れになりますよね?もっと新しい方法を開発しても良いと思います。

ただ、それは誰かが開発してくれるものではなく、自分がどうやったら主を伝えられるのか、どういう証の仕方が自分は得意なのかそれぞれが考えてみるべきです。そしてトライすることです。

最初に、伝道の才能は『ある』と言いましたが、路傍伝道に才能がなくても他の方法なら才能が「ある」と思いますよ。

神様が一人一人に個性を与えて下さっていますから、自分の個性がどこにあるのか見つける努力はしないといけません。見つけるにはただじ~っと座って祈ればいいのではなく、やってみないとわかりません。

どうやって主を伝えればいいのか、祈り、積極的に努力する人には神様がふさわしい霊感を与えて下さると思いますよ。